今日は月に一度の礼拝の日でした。
みんなで集まってお勤めをしたり、お話を聴いたり、宗教歌を歌ったりする時間です。
子どもたちが収穫した野菜を、仏様へお供えしました。(※果物・お菓子は購入したものです。)
お供え用の野菜を年長さんが収穫しました。
大きくなってきたスイカを見つけて大喜びでした。
思わず手が伸びて表面をナデナデ。
マクワウリも育ってきました。(まだ1個しか育っていないようです。)
嬉しそうに汚れた手を見せに来てくれました。
「汚れててかっこいいね!」と言うと、最高の笑顔を見せてくれました。
今日は礼拝の日でした。
収穫した野菜もお供えしました。
お供えをする、と言う感覚や習慣は、今の生活ではなかなか身近に感じることが少ないのでは、と思います。
私たちの「命」や「食べ物」「生活に必要なもの」「自然」「その他全てのもの」は恵まれたもの、という理屈ではない感覚を少しでも感じてもらえたら、と思っています。
夏休みにお盆でお墓参りやおじいちゃんおばあちゃんの家に行くこともあるでしょう。
お盆のいわれのお話を紙芝居で聞きました。
今日の礼拝のメインは、「ありがとう(有る事難し)」の気持ちが、私たち人間はいつの間にか「当たり前」になるよね、というお話でした。
美味しそうな野菜が採れて、最初は大喜びするけど次第に「またか」「もういらない」になったり、水道から出る水を「当たり前」と思い込んでしまっていたり。
阿弥陀様(仏様)に手を合わせる意味は、「感謝」の心を思い出させてもらうため、でもあります。
日々の生活から仏教的感覚を少しずつで良いので、子どもたちや教職員みんなと感じていきたい、と考えています。
今日の水浴び。
年少さん、年中さん
年長さん
お片付けは子どもたちで行います。
仏教的感覚は理屈ではありません。
仏様の悟りの世界は人間の感覚の外にあるからです。(人間が理解できることであれば、それは「有限」となるからです。仏の悟りは「無限」なのです。)
しかし、人間に分かるように「有限」の世界で表現せざるを得ないところに限界があるのですが、それを承知で教えをお伝えして下さった方が仏教をお開きになった「お釈迦様」です。
まだ、「感覚の世界で生きている幼児にとっては、そんなに受け入れがたい感覚ではないのかもしれない」、といつも感じます。
(それだけに、伝える私たちの責任も大きいのですが。)